ゴーギャン展(長文注意)
名古屋で開催されていた時も見たかったのだが(一部展示品が異なることを後で知った。)、友人と東京の国立近代美術館で見ることに。学生の夏休みということもあり、開館前に行ったにもかかわらず、夏休みの課題の為かメモを取る子供たちと、近頃では当たり前になった音声ガイドのヘッドホンをした大人の立ち止まりで、いきなり頭入りの鑑賞状態に。フランス時代は別の展示で見たことがあるという友人にならって、最初のブロックをパスしてタヒチ関連の作品から見る。
国内収蔵作品が最初に集められており、大原美術館蔵『かぐわしき大地』は、相当久々に見たことに(^_^;)
次のブロックは、ノアノアの連作版画。ルイ・ロア版、ポーラ版も含めての比較展示が案外良かった。薄暗い展示室だが見ごたえあり。
次に映像で『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』へと。あまり深い映像ではないので、適当に見て序章ってことで。
そして、日本初公開となる大作の前へ。混雑を予想しての鑑賞方法の分け方は、完璧に失敗しているので、近くで見たい人は『歩きながら見る』の列に入った方が良い。全体を見る為には下がるしかないが、高低差は無いので、人が少なくならない限り頭入りは避けられない。さて、彼の頭の中にあったイメージを完璧に表現できたという作品だ。確かに迫力がある。日本人のイメージにあるタヒチは明るいリゾート地だが、当時住んでいた彼にとって、また現地の人にとっては、精霊や悪霊潜む闇や、そんなものに近い島だったのだと感じる。娘を失って、生死の境を曖昧に感じながら、南国で描くことに没頭していた姿は想像すると恐ろしい気もすれば、彼自身への癒しの作業だったのかなと。
次の部屋の『ファア・イヘイヘ(タヒチ牧歌)』も年代も近く横長な作品だが、こちらののんびりしたムードと色合いが好き。このブロックは見ごたえある。よく出てくる馬や犬、横顔の女性にも注目しつつ。亡くなった年の作品『女性と白馬』の弱さにも納得。さぁ次は?と思いきや、終わり???むむむ、物足りない。全ては、『我々は~~~』の為だけの展覧会のようだ。
少し落ち着いたであろう入り口付近に戻って、フランス時代のピサロ他の影響抜けきらない時代の作品を見る。正直、タヒチへの序章を感じたのは、『洗濯するアルルの女たち』ぐらいだった。ブルターニュの少女たちの足くびは、タヒチの女たちの描き方と同じだったが。つまりは、タヒチの女たちは少女なわけで、この画家は・・・。人となりは絵の良し悪しには関係ないと、自分に言い聞かせる。
年表やタヒチの地図の展示を通過すると出口で、今まで見たこともないぐらいのグッズ販売の量に圧倒される。よくあるパターンで、タヒチものもあるので、
純粋なマーチャンばかりでは無い。にもかかわらず、ついうっかりはまってしまう自分が怖い。タイルはやめておいたので、まだ良しとしよう。
あっさり見終わったので、入り口でもらった鑑賞券で常設ものもチェック。
少し前に書いた、マイ・ブームの菱田春草の『四季山水』が見られたのは嬉しかった。雪舟の晩年の作と言われるものが有名だが、日本では描かれることの多い題材。巻物の全体像を見ることができる。朦朧体と云われた技法も私は好きなのだけれど、ここでは別の技法も用いられていることの方が注目されることらしい。
階下に小さな企画『寝るひと 立つひと もたれるひと』という展示があり、入ってみる。裸婦像の構成から、人間の二次元三次元の空間の捉え方などの解説をしていた。気になったのは、イケムラレイコ氏の『横たわる少女』。
展示も目線より低い位置にされていて、対面に置かれた椅子に座ってしげしげと眺めてしまった。ピン・ボケではなく、こういう表現。少し怖い感じが気になった。寒い館内のおかげで、余計その感覚が助長されたという。
いや~常設展を見たのは正解。ゴーギャン展に『タヒチの女』が無いのは、今さらだから?美術館の企画展等で来たことがあるから?なんでこうもあの絵には縁が無いんだか。すれ違うこと甚だしい。というわけでメイン・ディッシュは物足りなかったけど、気持ちは満腹。
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